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1994年F1サンマリノGPにおけるアイルトン・セナ死亡事故発生のメカニズム
この文章は、早稲田大学人間科学部eスクールに入学した2005年秋学期(後期)に受講した「安全人間工学」という科目の期末レポートとして書いたものです。課題のテーマは、製造・建築土木・航空・鉄道・自動車・医療などの分野で発生した事故(個人の事故ではなく、システム事故が望ましい)について、授業で学んだ方法で分析し、防止対策をやはり授業で学んだSHELLモデルに当てはめて整理する、というものでした。
長年、モータースポーツに関わりを持っていたこともあり、自分でも強い関心を持っていたアイルトン・セナの死亡事故を扱うことにしました。ちょうど事故についての裁判が結審したときで、多くの情報が見聞された時期でもあったからです。
レポートの枚数は「A4レポート用紙5枚程度」という規程でしたが、A4用紙で14枚になっておりました。
このレポートを提出後、担当のI先生から、交通安全関連のセミナーで、このレポートの内容を発表しないかというメールをいただきました。公表されているデータを時系列に並べ直して分析しただけのものでもあり、そんなおこがましいことは出来ませんと断ってしまったのですが、ちょっともったいなかったかなあ……と後で少し悔やみました。
ちなみに、この「安全人間工学」の受講は、柳田邦男氏の『マッハの恐怖』や『新幹線事故』といった巨大システムの事故を扱ったノンフィクションを多数愛読していたことがきっかけになっています。また、このレポートは、『ホンダがレースに復帰する時』などのレース小説で知られる高齋正さんが書かれた『ドキュメント ルマン1955』(グランプリ出版/1982)という大傑作ノンフィクションの爪の垢を頂きたい、と意識しながら書いておりました。
すがやみつる
2005年秋学期「安全人間工学」期末レポート
1994年F1サンマリノGPにおける
アイルトン・セナ死亡事故発生のメカニズム
菅谷 充(すがやみつる)
本レポートは、1994年5月1日(日)、イタリア中部のイモラ・サーキットにおけるF1サンマリノGPで発生したアイルトン・セナの死亡事故に関する原因の推定、その後の対策についての考察である。
自動車レースでは危険がつきもので、本件も、交通事故の延長とみなせば、個人的な事故のように見える。しかし、セナが事故死したサンマリノGPにおいては、金曜、土曜、日曜の3日間で5件の大事故が発生し、セナを含むドライバー2名が死亡したほか、ドライバー、観客、警備員、メカニックに多数の重傷者を含む負傷者が出た。
3日間にわたって開催されるレースではあるが、1回のレースで、これほど多数の事故が多発することは、過去に例がなく、きわめて異常なケースとなった。
F1レースは、世界最高クラスの「技術」「スポーツ」「興業」を包有する「システム」の上に成り立つイベントであるが、このシステムに綻びができたのが、事故多発の原因ではないかとも推測されていた。
イタリアでは、セナ事故死の真相を求めて何度も裁判が起こされ、航空機事故調査なみの事故の解析と原因の究明がつづけられてきたが、事故の原因やセナの直接の死因については、結局、曖昧なまま、結審を迎えている(裁判は2005年5月30日に、起訴されていたチームとサーキットの関係者全員が無罪で結審)。イタリアの裁判制度の関係で、事故の原因に関連する調査報告のなかには非公開のものもあり、結局、真の原因については特定されないまま現在に至っているのが現状である。
しかし、これまでに判明している事実だけをつなぎ合わせてみても、サンマリノGPで発生した5件の事故の遠因と推定されるものには、ある共通点があるように思われる。この事故の遠因となったと思われるものについても、安全人間工学の授業で学んだ手法を使い、考察してみたい。
3日間で5回の大事故、2名が死亡、重軽傷者多数
――なぜサンマリノGPで事故が多発したのか?
セナの事故が起きたのは1994年5月1日(日)、午後2時7分頃のことである。1994年シーズンの第3戦となったサンマリノGPは、イタリア中部のイモラ・サーキットで開催されていたが、日程の1日目から荒れ気味のレースとなっていた。
まず1日目の4月29日、1回目予選の開始直後のこと、ルーベンス・バリチェッロ(ジョーダン・ハート)が、操縦ミスでコース脇の縁石に乗り上げ、マシンのコントロールを失ってキャッチ・フェンス(マシンの衝撃を和らげる網)に突っ込んだ。バリチェッロは脳震盪を起こして意識を失い、病院に運ばれたが、生命には別条なかった。ただし、大事をとって週末のレースは欠場することになった。
翌日の4月30日(土)、こんどは予選でローランド・ラッツエンバーガー(シムテック・フォード)のマシンが、時速300km以上の高速でコースアウト。マシンはガードレールに突っ込んで破壊され、ラッツエンバーガーは即死した。
ラッツエンバーガーのクラッシュの原因は、マシンのフロントウイングの破損であった。ウイングによってダウンフォース(下向きの力)得ているF1マシンは、ウイングを失うと操縦性が損なわれる。とりわけフロントウイングが失われると、フロントタイヤにかかる荷重が減少するため、ステアリングを切ってもマシンが曲がりにくいアンダーステアの状況に陥る傾向が強くなる。ラッツエンバーガーのマシンも同様に曲がりにくくなり、コーナーでコースアウトしたものと推測されている。
この2回の大きなクラッシュが発生した後、アイルトン・セナは、どちらの現場にも姿を見せていた。また、バリチェッロを病院に見舞っている。2日後、自分が脳死状態で運び込まれることになるボローニャのマジョーレ病院である。セナは、F1マシンのスピードと比較して、コースの安全性が高まっていないと考え、そのことに神経質になっていた。前年(1993年)までのマシンに比べ、94年型のマシンは、大幅なレギュレーションの変更によって、安定性が損なわれていたからである。
##スタート時にもクラッシュ、飛んだタイヤと破片で観客が負傷
5月1日(日)、午後2時にサンマリノGPの決勝レースはスタートした。ポールポジションはセナ。1日目(金曜日)の予選で記録したタイムであった。
セナは、後方にミハエル・シューマッハー(ベネトン・フォード)をしたがえ、トップのまま第1コーナーたるタンブレロ・コーナーに向かう。
だが、後方グリッドでは、JJ・レートの乗るベネトン・フォードがエンジンストールを起こしてスタートできず、スターティンググリッド上に停止したままとなっていた。そこに後方からスタートしたペドロ・ラミィ(ロータス・無限ホンダ)が追突し、2台のマシンはコース上で大破することになった。
破壊されたマシンの破片は、コース上だけでなく観客席にも飛び込んだ。大きくて重いリアタイヤまで観客席に飛び込み、警備員1名、観客1名が鎖骨を骨折。他に観客多数が負傷した。ドライバーは無傷で脱出したが、レースは中断されず、クラッシュしたマシンと路面に飛び散った破片が片づけられる間、残ったマシンはペースカー先導による周回をつづけた。
レースが再スタートとなったのは、午後2時7分頃。5周目の終わりにペースカーがピットロードに姿を消し、コース上に残っていた全車が、セナのウイリアムズ・ルノーを先頭に加速していった。
1周後の7周目、メインストレートにつづく左高速カーブのタンブレロ・コーナーで、セナのウイリアムズ・ルノーが右にコースをはずれ、コンクリートウォールに激突。マシンからはタイヤ、サスペンションなどが飛び、スピンしながら跳ね返ってきたマシンのモノコック部は、コース上に停止した。
後続のマシンは、危うくセナのマシンとの接触を避けたが、ただちに赤旗が提示され、レースは中断となった。
すぐにレスキューカーが現場に駆けつけ、医師とレスキュー隊がコクピットから引き出したセナの身体を路面に横たえた。すでに意識はなく、自発呼吸ができていない状況のため、医師は気道確保のため、その場で喉を切開する。応急処置の後、ヘリコプターでボローニャのマジョーレ病院に移送されるが出血がひどく、ヘリコプターの中でも輸血がつづけられたという。
セナがヘリコプターで病院に運ばれた後、レースが再開された。この時点では、セナの死は、まだ発表されていない。セナの医学上の死(心停止)が確認されたのは、病院に到着し、レントゲンやCTスキャンの検査を受けた後の午後5時40分のことである。
実際にはコース上でセナの死は一目瞭然だったにもかかわらず、ここまで死亡宣告が引き延ばされたのではないかという噂もあった。イタリアの国内法では、自動車レースなどで死亡事故が発生した場合、そのイベントは中止され、ただちに警察の検証を受けることになっている。そうなれば、満員の観客に対するチケット代金の払い戻しなど、レース主催者には多額の損害が発生する。また、レースは世界に生中継されており、放送枠の関係からも、レースを続行する必要があったのだとも言われている。
実際、コース上でヘリコプターに運び込まれたセナは、防水シートを担架がわりにして運ばれていた。これこそが、セナを遺体として扱っている証拠だとするレース関係者の声もあった。通常、負傷したドライバーを移送するときは、頸椎の保護のため、ストレッチャーや頸部を固定できる特殊な担架が使われるからである。
セナが病院に運ばれ、事故現場での破片が片づけられたあと、レースは再開された。このレースでマシンに不調を感じたゲルハルト・ベルガー(フェラーリ)は、早々にリタイアし、セナが運ばれた病院に向かった。ベルガーは、マクラーレン・チームに所属していたときセナのチームメイトで、セナの数少ない友人のひとりでもあった。ベルガーがリタイアを決めたのは、マシンの挙動に不安があり、心理的にレースをつづけられなくなったからであった。
さらにこの後、ピットでタイヤ交換と燃料補給をおこない、ピットアウトしようとしたミケーレ・アルボレート(ミナルディ・フォード)のリアタイヤがホイールごとはずれ、フェラーリのピットにいたメカニック数名を直撃した。この事故でフェラーリのメカニック2名が骨折の重傷を負い、他に数名が軽傷を負うことになった。リアのホイールがはずれた原因は、ナットの締め忘れであった。つまりメカニックのミスである。一見、単純なミスのように思われるかもしれないが、前年までであったら、このような事故は起こりにくかった。なぜかといえば、93年までは、ルールによって、レース途中のタイヤ交換と燃料の補給が禁止されていたからである。
1994年からF1のレギュレーション(ルール)は、マシンの設計から競技の実施方法に至るまで、大きく変更されていた。
マシンの技術面での大きな変更は、前年まで許可されていたアクティブ・サスペンション、トラクション・コントロール、ABS(アンチ‐ロック・ブレーキ・システム)、パワーステアリングなど、「ドライバー・エイド」と称されるドライバーの運転を補助するハイテク技術の禁止である。これらのハイテク技術が禁止された理由は、予算の高騰防止にあるとされていたが、実際には、ハイテク技術に優れた1チーム(ウイリアムズ)のマシンが、他のチームに抜きん出て速かったため、これを抑制するのが目的だとされていた。1チームのマシンばかりが速いと、競技としての興味が損なわれ、観客動員やテレビの視聴率にも悪影響が出るからである。スポンサーから提供される巨額の資金で運営されているF1は、興業面でもチーム力を拮抗させる必要があった。
すでにレギュレーション変更の影響と思われる大きなクラッシュが、テストでも起きていた。JJ・レート(ベネトン・フォード)は1月にシルバーストン(イギリス)で開催されたテストで背骨を骨折。ジャン・アレジ(フェラーリ)も、イタリアのムジェロで開催されたテストでクラッシュし、頸椎を骨折して第2戦のパシフィックGP(日本・岡山県TIサーキット英田)と第3戦サンマリノGPを欠場中であった。これらの大きなクラッシュは、いずれもマシンのレギュレーション変更がもたらしたものと多くの関係者が考えていた。
たとえば前年までは、コーナーを回るときもアクティブ・サスペンションがあったおかげで、コンピューターがマシンにかかる荷重を計算し、外側と内側のサスペンションを自動的に変化させて挙動を安定させることができた。
また、トラクション・コントロールがあったおかげで、コーナーからの立ち上がりでも、アクセルペダルを踏みっぱなしにすることもできた。ホイールスピンしそうになると、コンピューターがエンジンのシリンダーのいくつかを点火できない状態にして、エンジンのパワーを落とすからである。
さらにABSがあれば、ハードブレーキングしたときに、タイヤがロックするのを防いでくれる。パワーステアリングがあれば、ハンドルの操作も軽くなり、マシンの姿勢が乱れたときの立て直しも容易になる。
これらは、コーナーでマシンが挙動を乱しそうになっても修正してくれる機構ばかりである。このような技術が一斉に禁止されてしまったのだ(ウイリアムズのマシンには、後に、禁止されていたはずのパワーステアリング機構がついていたことが判明する)。コーナーでコースアウトするマシンが増えたのは、ここに原因があったのではないかと考えられていた。
また、この日、セナの乗っていたウイリアムズ・ルノーは、セナの求めに応じてショート・ホイールベース仕様となっていたという。その結果、ステアリングホイール(ハンドル)の位置が、セナの好む位置よりも手前に来てしまっていた。そのためセナは、ステアリングホイールをもっと前方に移動するよう強く求めたらしい。サーキットでの緊急改造であったため、チーム側は、ステアリングコラム(シャフト)の途中を切断して切りつめ、鉄製の補強材でつないだという。このステアリングコラムが壊れて、マシンの操縦(操舵)が不能になったという説もある。
セナが、マシンの改造を求めたのも、コーナーでのマシンの挙動がピーキー(過敏)で、ちょっとしたことでスピンする傾向が強かったからである。第1戦のブラジルGPでも、ポールポジションからスタートし、途中、ピット作業でシューマッハーに抜かれて2位になった後の激しい追い上げ中に、コーナーから飛び出し、リタイアを喫していた。このようににマシンが安定しないのも、レギュレーションが変更され、ハイテク技術が禁止されたことと関係があるものと推測されていた。
さらに、クラッシュした際、セナは、ほぼ即死に近い状態であったことはまちがいないが、脳に損傷を負っていたこと以外の詳しい死因については発表されていない。公式に発表されたわけではないが、後に出てきた死因の中で、現在、もっとも信憑性が高いとされるのは、折れたサスペンション部品の先端が、セナのヘルメットについたバイザー部に突き破り、右目を直撃して、先端が脳にまで達した、というものである。
それ以外にセナの身体には損傷がなかったともいわれている。飛んできたサスペンションが、ほんの数センチずれていれば、セナは、クラッシュしたマシンから自力で出てきただろうとも説明されていた(F1の興業面を取り仕切るFOCAのバーニー・エクレストン会長の談)。セナの直接の死因は、まさに「不運」というべきものだったというわけである。実際、イギリスのレース雑誌に掲載された事故後のセナのヘルメットは、バイザーの右脇に1~2センチほどの平らな穴が開いているだけで、それ以外に傷は見あたらなかった。この穴がサスペンションの先端が突き刺さった痕跡だと説明されていた。
しかし、マシンの構造が異なっていれば、サスペンションの先端がドライバーの頭部を直撃することもなかったはずである。たとえば、F1に似たフォーミュラカーを走らせるアメリカのインディカー・シリーズで使用するマシンでは、ドライバーの周囲を緩衝材を内蔵したプロテクターで覆うことが義務づけられていた。視界は悪くなるが、クラッシュしたとき、頭部をコクピットの内壁にぶつけても、緩衝材でショックが和らげられ、助かる確率が高くなる。同時に、周囲から飛んできた破片も、プロテクターが防いでくれる確率が高くなるはずであった。
このような事情を踏まえ、サンマリノGPの後、いくつかの緊急対策が施された。次のモナコGPから採用されたのが、マシンを減速させるための仮設シケインの設置である。急ぎ決定したことであったため、モナコでは、もっともスピードの出るトンネル内のゆるいカーブの終わりある左直角コーナー手前に、水の入った大型ブロックが並べられた。だが皮肉なことに、モナコGPの1日目、カール・ベンドリンガー(ザウバー・メルセデス)が、この臨時シケインにクラッシュし、頭部を激しく打って危篤状態となった。
それでもF1の統括団体であるFIAは、つづくスペインGP以降のレースでも、仮設シケインを設置して、マシンを減速させる措置をとった。
翌95年からはエンジンの排気量も3,000ccに制限され(94年までは3,500cc)、96年からはF1マシンのコクピットにも、ドライバーの頭部を守るプロテクターが装着されるようになった。さらに、その後も、安全性に関するルール改正は、毎年のようにつづけられている。
モータースポーツは、安全性を高めると、スペクタクル度が低下し、スポーツ性や興業性が損なわれるという宿命を持っている。F1という巨大なシステムの中で、安全性とスポーツ性(興業性)のバランスが崩れたとき、また、大きな事故が起きる可能性が高い。大手自動車メーカーの代理戦争のようになっている現在のF1は、このところ死亡事故こそ起きていないが、いつ大事故が発生してもおかしくない危険性だけは、いつも秘めている。
Photo: ELF PR
F1サンマリノGPにおけるアイルトン・セナの事故死に至る原因調査表(図)(下から上へ)
【註】
- (F)=F1界全体での改善事項
- (T)=チーム内での改善事項
◎L=Liveware(人間)
- (T)新しくなったマシンへの順応→テストの増加。
- (T)ドライバーとエンジニアに対する不信感の払拭。良好な人間関係の構築。(ウイリアムズの場合、エンジニアがマシンに絶対的な自信を持っており、ドライバーの意見を聞かない傾向が強かった)。
◎H=Hardware(ハードウェア)
- (F)コーナリング速度の低減(次ページ以降参照)。安全対策デバイスの導入。
◎S=Software(ソフトウェア)
- (F)ルールの変更。
- (T)車高が下がらないようにするための措置→タイヤの内圧を高めるため、蛇行運転を充分にするなどの対策を熟知させる。
◎E=Environment(環境)
- (T)金曜、土曜の連続事故でセナのモチベーションは下がっていた。そのモチベーションの回復。
◎M=Management(管理)
- (F)事故が起きた際のレース運営方法。決勝レースのスタート時に起きた事故は、当初、赤旗を提示して中断させるつもりだったが、フラッグマンの手元に赤旗がないというお粗末な不注意で、セーフティカーによるローリングとなった。そのためタイヤ温度が下がり、車高も下がった可能性もある。
- (T)チームのセナに対するすべてのサポート。
F1を統括するFIA(本部パリ)は、たびかさなる死亡事故、重態事故の発生により、1994年シーズン途中から以下のようなルール変更を実施した(主に安全性に関するものだけを抜粋)。
・1994年シーズン途中より
- フロントオーバーハングのサイズ縮小→フロントウイングの縮小につながり、コーナー速度低減が期待できる。
- ボーテックスジェネレーター(ウイング先端の整流装置)の禁止→コーナーが不安定になるため、速度低減が期待できる。
- ディフューザー(車体下面の空気を強制排出する装置)のサイズ縮小→ダウンフォースの低減によりコーナー速度低減が期待できる。
- スキッドブロック(車体下面に流れる空気量を制限)の追加→同上。
- ピットロードのスピード制限(120km/h)→ピットロードでの事故の減少。
- エアボックス部分に穴を設置(ラム圧の低減)→エンジン出力の低下による速度低減が期待できる。
- 最低車体重量520kg →重量増加によりクラッシュパッドなど安全装置の追加が期待できる。
(※サンマリノGPに続くモナコGPでは、最高速地点後のコーナーでの速度低下を狙い、臨時にシケイン(水を詰めたプラスチックブロックを並べたもの)が設置されたが、ベンドリンガーが、このブロックに激突し、重態となった。ただし、その後に回復)。
(1995年以降の安全対策の変遷については略)
F1では、重大事故が多発すると、安全性を主眼としたルール変更が実施され、その結果、スペクタクル性やスポーツ性が減少してくると、今度は、そちらの回復を目的としたルール変更がなされることを繰り返している。
たとえば1982年にはレース中に死亡事故が2件発生すると、翌83年には、大幅なマシンに関するルール変更が実施された。1982年は、1970年代の終わりに出現したボディの両脇にウイング構造を持つため、ウイングカーと呼ばれるマシンが隆盛を極めていた。このウイングで大きなダウンフォースを得ていたが、常時、マシンを路面に押しつけるため、コーナー速度も増加の一途をたどっていた。
しかし、この構造のマシンは、ひとたびスピンして後ろを向くと、翼の構造が逆になるため、一瞬にして空中に舞い上がる欠点を持っていた。死亡した2ドライバー以外に、テスト時のクラッシュで再起不能の重傷を負ったドライバーもいたが、やはりマシンのウイング構造が原因と考えられている。
そのためF1の統括団体は、翌83年から、車体底面を平面にすることでウイングカー構造を禁止した。その結果、コーナー速度が低減し、以後、レース中の死亡事故は1984年までの12年間、ゼロの状態がつづいていた(1986年、テスト中のクラッシュ事故で1名死亡)。
1983年には、決勝レース途中の給油も禁止されたため、全マシンが、満タン状態でスタートすることになった。満タンにするとマシンが重くなるため、速度が上がらず、また、マシンの挙動が不安定なため、ドライバーも慎重な運転が要求される。その結果、重大事故の減少にもつながっていた。
ところがセナが死亡事故を起こした1994年は、この燃料給油が復活した年でもあった。1986年から91年まではホンダ・エンジン搭載チームが連続でチャンピオンになり、92年と93年は、ルノー・エンジンを積んだウイリアムズが、ブッチギリの速さでチャンピオンをもぎ取った。このように特定のチームが常勝すると、競争としての面白みに欠け、観客動員だけでなく、何よりも重要なテレビの視聴率にも影響が出てきてしまうのだ。
そこでチーム同士の力を拮抗させるためのルール変更が実施される。1984年の燃料給油復活は、コース上だけでなく、ピット作業というチームワークによって順位の変動をもたらすのが狙いであった。事実、第1戦のブラジルGPでは、予選でポールポジションを取り、決勝でも1位を走っていたセナが、ピット作業にかかった時間の差で2位のシューマッハーに追い抜かれている。セナのウイリアムズ・ルノーは、一発の速さはあるが、その走りを持続できない神経質なマシンとなっていたため、シューマッハーの追撃中にスピンを起こし、そのままリタイアした。
前年までの2年間は、ウイリアムズの天下ともいえる状態にあったが、その理由は、トラクション・コントロール・システムやアクティブ・サスペンションといったハイテク技術の導入にあった。この得意のハイテク技術を禁止されたため、ウイリアムズのマシンは一挙に優位性を失ってしまったのだ。
しかもシーズンのはじめは、ルール変更直後でマシンが熟成されていないという問題があった。1983年に大きなルール変更があったときにも、シーズン序盤のアメリカ西グランプリなどでは、上位のマシンが次々とトラブルでリタイアし、予選20 位以下のマシンが優勝するということさえもあった。大きなルール変更が導入された1994年も、ラッツエンバーガーの死亡事故の原因を見れば(フロントウイングの脱落という構造上の問題)、やはりマシンの熟成が進んでいなかったことが見てとれる。それはセナの乗るウイリアムズも同じだったはずである。
セナの死亡事故の直接の原因については、マシンが破壊されていたために、結局は不明のままとなっているが、もっとも可能性の高いのは、「ステアリングコラムの折損によるマシンのコントロール不能」とされている。これはセナのマシンと後続のシューマッハーのマシン(ベネトン)に搭載されていた車載カメラの映像と、セナのマシンに搭載されていたテレメーター用データの解析によって明らかになったものである。
セナの乗るウイリアムズは、コーナーでの応答特性を高めたいセナの強い希望によって、サンマリノGPの直前、ホイールベースを短縮された。その結果、ステアリング・ホイールの位置がドライバーに近づくことになり、運転しづらくなったとセナが訴えたため、チームは緊急にステアリングコラムを切断し、ジョイントで短縮されたステアリングコラムをつなぐことにした。この接合箇所が破断されたのではないか、という疑いが持たれているのだ。(セナがハンドルを左に切っているのに、前輪が向きを変えていない様子がビデオ映像で確認されているという)
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もう1つ事故原因として考えられているのは、最初のスタートのときに発生したクラッシュにより、5周にわたってペースカー先導による低速走行がつづいたことである。その結果、タイヤが冷え、空気圧が低下したために、車高が下がったいた可能性が高い。事故現場直前の路面には、いくつかの凹凸があることが知られており、車高が下がっていために、床が路面の突起に当たってスライドしてしまったのではないかというものだ。もちろん、両者が同時に起きた可能性もある。
セナの直接の死因は、折れたサスペンションの先端が右眼窩に突き刺さったためとされている。そのような事故を軽減するため、1996年からF1マシンにもインディカーのようなプロテクターが装備された。
また、脳挫傷や頸椎の損傷による重傷事故が多いため、以前からインディカーシリーズで採用されていたHANS(ハンズ= Head and Neck Support の略)が、F1でも2003年から装着されるようになった。
1994年のショックから10年間は、安全性が重視される方向でルールが見なおされてきた。新しいコースも安全性が最優先されたため、小さなコーナーばかりの低速コースが多く、レースのスペクタクル性が減少した。また、ミハエル・シューマッハー(フェラーリ)が6年連続でチャンピオンになったこともあって、ドイツとイタリア以外ではF1人気が低迷するようになった。その結果、2005年からは、またもチーム力を拮抗させるためのルール変更がもたらされている。
2005年シーズンは、マシンの性能差が小さくなったため、珍しくコース上での追い越しがよく見られるシーズンとなったが、その分、接触事故も増える傾向にある。
スペクタクルと安全という矛盾を絶えず内包するF1は、今後も両者の間で振り子のように揺れながら存続してくことであろう。そして、そのF1(モータースポーツ全般)は、重大事故が発生してからでないと、つまり犠牲者が出てからでないと、安全性に関するルールが真剣に論議されないという別の矛盾も抱えている。
- 「複合事故――アイルトン・セナ・ダ・シルバは、なぜ死んだか」(フランコ・パナリッティー著, 長谷川伸幸・訳, ソニーマガジンズ, 1995)
- 「セナを殺した男たち」(ジョー・ホンダ, KKベストセラーズ, 1994)
- 「LIFE AT THE LIMIT, Triumph and Tragedy in Formula One」(Professor Sid Watkins,Macmillan, 1996)
- 「AUTOSPORT」(英国)
- 「AUTOSPORT」(日本,三栄書房)
- 「Racing On」(日本,ニューズ出版)
- 「F1 速報」(日本,ニューズ出版)
- CINECA(車載ビデオをコンピューター解析したイタリアの研究機関),
http://www.cineca.it/en/content/senna-car-accidentAnswers.com,answer.com,http://www.answers.com/ - その他多数。